2014 Family day

7月20日はフィリピンの方を中心とした、ファミリーデーが行われました。またこの日、妙高教会では、高田・長岡教会の若い二人の結婚式もあり、フィリピンの方からは、心のこもった歌のプレゼントなどサプライズも計画されました。結婚した二人と、家族のみなさんもとても喜んでいました。まさに、「家族の日」にふさわしく、思いやりに満ちた、あたたかい集まりになりました。

また、講師としてお招きした伊藤神父様のお話は、フィリピンについてでした。ふだん、フィリピンにはなじみの薄いWの子どもたちにとって、伊藤神父様のお話は、とても分かりやすく新鮮だったようです。フィリピンのお母さんたちは、愛する自国の事をなかなか子どもや家族に伝えられず、分かち合えない淋しさがあります。しかし、このお話を通して、少しでも自分の国を身近に感じてもらう、良いきっかけになったと喜んでいました。

高田教会にとっても、フィリピンコミュニティーは、なくてはならない存在です。わたしたち日本の信徒が、もっと彼女たちの明るさや、聡明さに出会える機会をもてたらどんなに素敵な事だろうと、心から思う一日でした。                

広報部

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7月役員会後記

(1)教会の車両(ハイエース)について
今後も教会の車を利用し、教会の用事で外出する機会があると思いますが、「利用する人たちの人数で、ガソリン代を負担しましょう。」との取り決めをしました。その際、計算方法としては、社会福祉法人フランシスコ第三会マリア園の規定に従い、走行距離1km当たり30円で計算し、代表者が教会事務室へ納める事としたいと思います。ご理解、協力の程、宜しくお願い致します。

(2)妙高教会への協力体制について
毎年、法人専務理事の佐藤夏樹さんが、教え子の有志を募り、妙高教会へ大掃除、草刈、布団干し等のボランティアを行って下さっています。役員会でも、協力教会として高田教会信徒会が今後、何かお手伝いができれば良いのではないかとの提案がありました。その中で、定期的な風呂掃除、山荘の冷蔵庫内の整理整頓、台所の床掃除、布団のダニ駆除等、貴重な意見が出ました。只、敷地が広いため、多くの方の協力が必要となりますので、内容を検討後皆さんにおはかりしますので、是非とも参加下さい。
以上、宜しくお願い致します。

吉越 正伸

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お帰りなさい!フベルト神父様

サッカーワールドカップ
ドイツ、勝ちましたね!
おめでとうございます!!

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クララ会だより

カトリック高田教会信徒会長吉越さま
信徒の皆さまへ 

暑中お見舞い申し上げます。
きたる8月12日 カトリック高田教会の聖堂をお借りして、聖クララのお祝いをお捧げしたいとおもいます。信徒の皆さまと、共にお祈り出来れば何よりと下記ご案内申し上げます。

8月12日火曜日  午前11時 ミサ
主式 菊地司教様
共同司式 地区の神父様方
 
ミサ後、軽食をいただきながら、皆様と分かち合い、交流が出来ればと存じます。
ご参加できる方は、教会の佐藤範子さんの方に、6日までにお知らせください。

聖クララ会修道院 院長 具志堅安江
姉妹一同

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8月は、墓地ミサ、聖母の被昇天ミサなど

死者のために祈り、帰天を意念するミサが捧げられます。そこで、カトリック信者が、日ごろ抱いている「先祖との交わり」をめぐる具体的な問題をQ&A形式で取り上げてみました。
ここに紹介したQ&Aは、カトリック中央協議会から出版された 『祖先と死者についてのカトリック信者の手引』¥150から引用しました。

『お墓参り・お墓』
〈問1〉お盆には、カトリック信者は、どのようにすればよいのでしょうか。
〈答〉カトリック教会全体の「死者の日」は十一月二日ですが、日本の習慣に従って日本の教会の多くは、新旧のお盆の間に、死者のために祈り、また、死者のためにミサを捧げます。 
 八月十五日は「聖母マリアの被昇天」を祝いますが、聖母マリアの被昇天と共に、他の人たちの帰天を記念するのもふさわしいことです。カトリックでは、神の愛の中に祈りを通して、いつまでも亡き人たちと通じています。お盆や命日に亡くなった人との精神的一致を強め、時に祈りを捧げることは、大変意味深い事です。

〈問2〉家のお墓は、代々、お寺の中にあります。お墓参りの場合、どうすればよいでしょうか。
〈答〉家族のカトリック信者でない人、また、佛教徒の人たちと一緒にお墓参りする場合は、お坊さんに読経を依頼されてもよいでしょう。信者は、心の中で死者のために神に祈りましょう。
 しかし、すでに一家族全員が信者になった場合、お墓を移すことができないならば、お墓の前で、みながカトリックの祈りを唱えればよいと思います。この場合、お寺がお墓の世話をしてくださるのであれば、お寺と相談して、しかるべき御礼をしなければなりません。 
 なお、カトリックの家庭が新しくお墓をつくる時は、カトリック墓地があれば、そこに、ない場合には、できるだけお公共の墓地をつくった方がよいと思います。また、教会の納骨堂に遺骨を納めるのもよいでしょう。

〈問3〉先祖のお墓を一つにしたいのですが、石屋さんは「墓石には魂が入っているので、魂を抜いてもらわないと触れない」といいます。どうしたらよいでしょうか。
〈答〉お坊さんに相談し、また、親類、兄弟の考えを尊重して、石屋さんも含め皆さんの納得のいく方法をとる事をお勧めします。

〈問4〉私は家を相続する者です。家族全員もカトリックになってしまったので、今までの仏教のお墓をみる者がなくなりました。何か良い方法はないでしょうか。
〈答〉(1)可能なら新しいお墓をつくって改葬し、カトリックの方法ですることです。(2)改装出来ない場合は、お寺が許して下さるならば、しかるべきお礼をして、今までのお墓の管理をお寺にお願いし、お墓参りすることです。

〈問5〉先祖は仏教徒で、後継者がカトリックの場合、お寺のお墓に一緒に埋葬することができるのでしょうか。  
[答]お寺が許して下さるならば、カトリック側では差し支えありません。しかし、問4に書いた通り、特に家族全員がカトリックになったならば、カトリック墓地か、公共の墓地に新しくお墓をつくり改葬されるのが望ましいことです。

〈問6〉お墓の方位が悪いので厄払いをしていただくということは、カトリックでもするのでしょうか。
〈答〉キリスト強的にいえば、一般的に方位が悪いということはありません。したがって、厄払いも必要ありません。ただ、信者でない家族が、お墓の方位を気にして方位を見てもらったり、厄払いをしてもらうことに反対する必要はありません。このことは、家の方位についても同じことです。このような時でも、可能なら司祭を呼んで祝別してもらい、納得してもらうことはできないでしょうか。

〈問7〉お墓には、亡くなった人の魂が何らかの形で入っていますか。
〈答〉 お墓には、亡くなった人の魂が入っているわけではありませんが、故人の遺体、遺骨、遺髪が入っているので大切にしなければいけません。そうすることによって、私たちも故人も神の慈しみによるキリスト教の救いの共同体に属しているという連帯感を深めることができるのです。

『その他』

〈問8〉人が死ぬと長い試練の道をたどってから、やがて極楽に着き、ついに、先祖の位にあげられると多くの人は考えてます。それで死んだ人の親族がお供え物をしなければ、死者の霊が苦しみを受け、生者を害するのだと思われています。カトリックでもそのような考え方をするのですか。
〈答〉各宗教によって、死後どのようになるかは、教えることが違います。カトリックでは、質問とは違った意味ですが、死後の道を認めます。
カトリック教会は、初期の時代から死者のために祈りを続けてきました。その祈りは、死んだ人に永遠の安息(安らぎ)を与えるようにとの願いが込められていました。教会の教えによれば、「聖人」を除いては、ある清めの過程を通らなければ完全に神との一致に到達することはできません。
たとえ清めの過程(煉獄)にいる人でも、生きている人よりも密接に神の愛にあずかっていますので、わたしたちに害を与えることはありません。死んだ人たちは、生きている家族の幸福だけを望んでいるのでいるのです。ですから、亡くなった人の霊が生きている人に害を加えるということはありません。

〈問9〉先祖を大切にしないと罰が当たりますか。
〈答〉前問とも関係していますが、子孫に罰を与えるような先祖はありません。その意味では、先祖からの罰は有りません。
 ただ、自分の心の中に罪悪感が起こる時、時として先祖を大切にしなかったのではないかと思い、そのために罰が当たると考える人がいます。
 キリスト信者の場合、先祖を大切にしないで悪かったと思った時は、神に許しを願い、あらためて先祖を大切にするように心がけましょう

〈問10〉先祖の中には、地獄にいる人もいるのでしょうか。
〈答〉誰が地獄にいるかということは、わたしたち人間にはわかりません。この世にいる時、もしも神と隣人とを全く愛さない人が居るとすれば、そのような人は自分から愛と幸福の源である神から永遠に離れていった状態にとどまります。これが地獄の状態です。しかし、人間は他の人の真の心をみることができませんから、誰についても、その人が地獄に落ちたと断言することはできません。神は、すべての人を愛し、救われることを望まれています。死後のことは、このような神の愛の摂理にお任せしましょう。

〈問11〉カトリックにも無縁仏のようなものはありますか。
〈答〉霊が迷い出てくるというような意味の無縁仏はありません。後継者が無く、祈る人がいないという意味での「無縁仏」であれば、カトリック信者は、そのような人たちのために祈るべきですし、教会は、今でも毎日祈っています。
 特に、十一月二日の「死者の日」には、ただ単に親しい人のためばかりでなく忘れられた人たちのためにも祈っています。

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マリアの被昇天とNo.379

8月はお盆の月です。お盆とは、といって、「祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事」(広辞苑)とあります。祖霊のために供養をするというのは、民族や宗教に関係なく実行していることです。これは、死について、また死後の世界についての問題でしょうが、この点、キリスト教ははっきりした答えを持っていると思います。「やさしい教理問答」(中央出版社1975年)では、次のようにあります。

「死とは何ですか。 死とは、霊魂が体をはなれることです。 人は死んでからどうなりますか。 人は死んでから、体は土にかえり、霊魂は神の審判をうけます。

  審判とは何ですか。 審判とは、一生の善悪を神に裁かれることで、これには、私審判と公審判があります。

私審判とは何ですか。 私審判とは、人が死んでから、すぐうける審判です。

審判ののちに、人はどうなりますか。 私審判ののちに、人は、天国か、地獄か、あるいは煉獄へ行きます。―――――

公審判ののちに、人はどうなりますか。 公審判ののちに、神に従った人は天国へ行き、終わりない幸福を受けます。これを『永遠の命』といいます。神に従わなかった人は、地獄へ行き、終わりない苦しみを受けます。これを『永遠の死』といいます。」

以上は、実に簡単にまとめたものですが、新しいカトリック要理と比べると、かなりニュアンスが違います。死の定義は、簡単ではありません。死は、神秘です。新しい「カトリック教会の教え」では、次のようにあります。

「人は人格として、つまり、自分の行為に一貫して責任を取ることができる自由を備えた主体として生きます。死が訪れたとき、その人の存在はそのようなものとして決定します。自分がなしたよいわざは、神において永遠の価値を持つものとなります。伝統的には、功徳として理解されています。悪しきわざや罪は、永遠のいのちと相いれませんから、それらから清められる必要があります。各人は死後、すぐに「私審判」を受けるとされるのは、当然のことです。死においてその人の存在が決定するとすれば、その時点で、その人の地上の生についての神の基準からの価値判断が下ることになるのですから。―――

体の復活――この体が機能を果たさなくなったときが、人間の死です。人が死後どうなるかということについて、通常二通りの考え方があります。一つは、それほど体に依存している人間存在は、体の死とともに消滅してしまうという唯物論的考え方です。もう一つは、体は有限で滅びるが、魂は精神的なものなので永遠であるとする考えです。人間のいのちがこの世だけで終わるはずはなく、何らかの意味で継続するはずであると考える場合、魂が生き残るとする考え方が、洋の東西を問わず、一般的です。しかし、本当にそうでしょうか。人は体をもって存在し始め、体をもって百年足らずのいのちを生き続けます。それに続く永遠の生命が体なしというのは、随分と不自然な理解ではないでしょうか。しかし、体は死によって滅びるという厳然たる事実の前に、人は通常右の二つの見方のどちらかを取らざるをえなくなっているのです。キリスト教は、人はキリストの復活にあずかり、終わりの時に、体とともに復活すると信じています。――」(「カトリック教会の教え」中央協議会から)

少々長くなりましたが、マリア様の被昇天について語るうえで必要と思いました。
「新カトリック大事典」に、被昇天について書いてありますが、長い間、教会の中で信仰されていたことでしたが、1950年に信仰箇条として宣言されました。「マリアが地上の生活を終った後、肉身と霊魂とともに天の栄光に上げられたことは、神によって啓示された真理である」と言っています。「死んだのち」ではなく、「終わったのち」としたのは、マリアは原罪なくやどったから、罪がなく、死ぬわけがないという学者に気を使ったからと言います。この時、東方教会では、マリアの被昇天は信じるが、信仰箇条にしてしまうのは一方的だと遺憾の意を表し、プロテスタント諸教会は「聖書に書かれていない説を教理とした」と強い反対をしたそうです。詳しく知りたい方は、「大事典」をお読みください。とにかく、マリア様はこの世を終った後、イエス様の復活の栄光に心身ともにあずかっているのです。私たちも、そのうちに共にあずかります。マリア様は、すべてにおいて、私たちの人生の鑑なのです。天国が楽しみですね。

さて、お盆についてもみてみましょう。 

ひろさちや著の「お葬式をどうするか」という本を参考にしました。「日本人の作ったごった煮の死後の世界」のところをみますと、人が死んだ直後の霊魂は荒れているというので、荒御魂(荒魂)と呼び、お盆にはこの荒御魂を供養してあげるとあります。また、死後一番荒れているのがで、これも供養してあげるわけです。この両方の魂をホトケというそうです。どうも、カトリックでいう清めを待つ煉獄の霊魂が,ホトケということになりそうですね。ホトケから解放されて、カミとなり、天国へ。また、「何回忌」というのは、別に仏教の発想でなく、日本古来の考え(神道)だそうです。東条英機が33回忌をもってカミになり、靖国神社に祀られました。これは、神道の考えだと言います。戦犯をカミ(神)として祀ったので、隣国の反発を招きました。このカミをと言います。供養によって、やっと救われて和御魂(和魂)になれるので、それまでは「何回忌、何回忌」と供養してあげるのです。供養の祈りをするたびにお金が入る、ということで、宗教家は笑いが止まりませんよね。でも、この供養の考え方や方法は、カトリック教会でもおかしなこともありましたし、ありますよ。かっては、「この祈りを捧げると、煉獄の霊魂が救われる。『これだけで、これだけ救われる』」なんて、数字で表すこともありました。煉獄は神様の用意したものではありません。民間信仰によるものです、真実です。私たち人間にとっては、有り難いものです。また、地獄は神様の用意したものではありません。神様が用意されたのは天国だけです。死後、直接天国へ召されるのが神様の望みです。清めを受け、償いを果たす(煉獄では自分自身では果たせません。誰かが償ってくれます)のが、煉獄です。その意味で、煉獄はわたしたちにとってありがたいことです。これらのところを、きちんと整理しておかないと、カトリックだって、「ごった煮の死後の世界」でないかと言われそうです。とにかく、死や死後のついてははっきり理解しておいたほうがいいですよ。

マリア様の被昇天こそは、わたしたちの死と死後の世界の鑑です。教えも入っております。

「聖母にすべてをまかせる祈り
天の、おとめマリア、わたしは、あなたの尊いご保護にすべてを委ね、生涯のすべての日々、特に、臨終の時に、わたしの身も心もいつくしみ深いみ手に委ねます。わたしは、すべての希望と喜び、困難と悲しみ、一生と最期をあなたに捧げます。御取次によって、わたしのすべての行いが、あなたと御子のみ旨にかなうよう導いてください。アーメン。」
(「カトリック祈祷書」 祈りの友)

協力司祭 続橋和弘

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第22回 長岡地区小・中学生サマースクール

毎年恒例の長岡地区小・中学生の合宿を越後川口にて行います。
他の教会の子どもたちとお友だちになれるチャンスです。
ぜひ、多くの子どもたちの参加を待ってます。

日時:  8月4日(月)~5日(火)
*高田教会集合8:00 出発8:30
場所:  えちご川口地域「朝霧の宿 やまぼうし」・・旧木沢小学校

テーマ: 福音の喜び
(サブテーマ: イエス様ってどんな方? おしえて!)
参加費: 一人
持ち物: 4日の昼食、水筒、上履き、タオル、帽子、雨具、着替えの衣類等
懐中電灯洗面用具、虫よけスプレー、保険証のコピー、寝る時の服 常備薬(必要の方)、聖書、筆記用具   
*ゲームは持ってこない。
参加申込み・・・参加申込書を7月20日までに教会事務の佐藤、教会学校のリーダー、司祭いずれかに提出して下さい。
申込み書は、お御堂後ろ、事務室、教会学校に用意して有ります。

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日本カトリック難民移住移動者委員会 委員長 松浦悟朗(大阪教区補佐司教) AOSニュースより

7月13日 船員の日
378-9b
378-9

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長岡地区信徒大会

6月役員会後記
皆様、6月1日の長岡地区信徒大会は良い天候に恵まれ、参加された方、お手伝いいただいた方、ご苦労様でした。皆様一様に笑顔で帰宅されました事、まずは感謝したいと思います。

この度、長岡地区信徒大会の担当教会として、手抜かりの無いよう動いたつもりでしたが、暗中模索の作業でしたので、やはり失礼な点、漏れ落ち、連絡ミスなどがあり、反省しきりです。ご不便な点など多々ありました事、まずは参加された高田教会の信徒の皆様にお詫び申し上げます。

当日は、菊地司教様をお迎えし、福音の喜びについてお話を頂きましたが、お話の後に質問の手が挙がり、普段の私たちの日常生活における信者としての心構えや、意識はどのように持ち続けるべきなのか?又、障害のある方々が、ミサへ参加される場合の手話通訳者の確保や拡充についての意見など、とても大切な問題に気づかされました。司教様にも丁寧にお応え頂きました事、感謝致したいと思います。

 又、昼食時には楽しみにしていた竹の子汁を頂き、妙高教会の信徒の皆さんが、腰を屈め信徒会長自ら参加して25キロもの竹の子を採ってきてくださいました。その気持ちも、汲んで本当においしく頂きました。妙高教会の皆様には感謝しきりです。今後は、高田教会としても、協力できるところはお互いに助け合えればと感じているところです。皆様からもご意見を頂戴できればと思いますので、よろしくお願い致します。

信徒会長 吉越正伸

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ごミサと参加者

ご復活祭を祝った私たちは、6月に入り、昇天祭、聖霊降臨祭、三位一体、キリストの聖体、聖ペトロ・パウロ使徒の祝祭日を続けて祝ってきました。7月には聖トマと聖ヤコブ使徒の祝日がありますが、ほかに、これといった大きな祝祭日はありません。そこで私は、祝祭日(勿論主日も含めて)について考えてみようと思いました。祝祭日には、ミサがあります。ミサとはなんでしょうか。こういう質問は、すでにお分かりの皆さんには失礼でしょうが、確かめておきましょう。

「ミサは、わたしたちがイエス・キリストの死と復活を記念し、その復活の恵みにあずからせていただく、喜びに満ちた祭儀」(「カトリック教会の教え」197頁から)です。

「キリスト者は使徒の時代から、主の日である日曜日に集まり、主の復活を祝う感謝の祭儀を挙行することを大切にしてきました。…このミサの司式ができる人は司教あるいは司祭ですが、ミサを挙行するのは信徒全体(会衆全体)です。ミサは司祭だけがささげるものではなく、信者全体がささげるのです。…信者はキリストの奉献に合わせて、日々の労苦、仕事、すなわち生活全体を、父である神に奉献するように招かれています。」(同197~198頁)。

ついでに祝祭日についてもみてみましょう。
「主日=日曜日のキリスト教的概念で、歴史的にも神学的にも根源的なキリスト教者の集会と礼拝の日である。」(新カトリック大事典から。主日は「主の日」であって祝祭日です。栄光の賛歌と使徒信条を唱えます。)
「祭日=典礼暦年の周期によって救済史の秘儀を記念する教会の祝祭日のうちで最も重要性・普遍性の高いものをいう。キリストの生涯の重要な秘儀を記念する主の祭日がその根幹をなし、とりわけ主の受難・復活を記念する過越の三日間は祭日中の祭日といわれ、最も根源的なものと位置づけられる。」(同。なお、祭日には栄光の賛歌と使徒信条を唱える)

「祝日=典礼暦年における祝祭日の等級の一つで、教会の広義の祝祭日のうち祭日に次ぐ重要性を認められるものをさす。キリストの生涯の秘儀を記念して祝う主の祝日、マリアの祝日、使徒・福音記者・殉教者など聖人の祝日がある。祭日と違って、祝日には前晩の祈りがなく、当日の枠内で行われる。」(同。なお、祝日には栄光の賛歌は唱えるが、使徒信条は唱えない。)

教会の暦には、記念日とか週日があり、とにかく教会は、毎日キリストと共にミサを捧げているのです。そして、「正当かつ合理的理由がない限り司祭は、少なくとも1人の信者の参加も得られない場合はミサを挙行してはならない。」(カトリック新教会法典第906条)と言ってます。信者であることは、すごいことなんですよね。日曜日に時間をかけて地方の教会に行き、待っても誰も来ない時、教会の名において1人でミサを捧げることもありました。ミサはイエス・キリスト様が私たちと共に捧げるのです。名誉なことです。有り難いことです。もっともっと心を込めて与りたいものですね。ところでミサには「参加する」というのでしょうか、「与る」というのでしょうか。「参加」とか「与る」では、「そこに居る」と言うだけで、なにか積極的な態度とはならない気がします。「共に捧げる」と言ったほうがいいかも知れませんね。因みにキリシタン時代は、「みいさ(ミサ)を拝み奉る」と言ってました。今の私たちには、ぴんとこない表現ですがね。でも、今でも司祭が「ミサをたてる」とか「ミサをあげる」と言います。これだって変です。「ミサを執り行う」「祭儀を捧げる」ということでしょうか。神の前に、「身を立て、名を挙げ」(「あおげば尊し」の唱歌)と言うことに似てます。

とにかく祝日とミサと参加者について少々書いてみました。どうぞ「カトリック教会のカテキズム」や「カトリック教会の教え」、「カトリック要理」などを読んで学んでみましょう。また、祭壇で使うミサ典書の総則などを読むのもいいでしょうね。

皆さん、「ミサを捧げるのは司祭である」ではなく、キリスト様が私たち信者と一緒に捧げるのです。もっと積極的に「捧げ」ましょう。「拝み奉り」ましょう。

2014年7月 協力司祭 続橋 和弘

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